Red Hot Chili Peppers | ja

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レッド・ホット・チリ・ペッパーズ (Red Hot Chili Peppers) は、アメリカカリフォルニア州出身の世界的に人気のあるロックバンドである。日本での通称は「レッチリ」。一部のオールドファンからは「レッチリ」が定着する以前の英語圏での自然な略称(Chili Peppersなど)で呼ばれる。世界での主な通称は「RHCP」や「Chili Peppers」。

ファンクとヒップホップを、パンク・ロックやハードロックなどと混ぜ合わせた、ミクスチャー・ロックと呼ばれるバンドのひとつ(ただし、ミクスチャー・ロックは和製英語であり、日本以外では通用しない呼称)。現在、オリジナル・アルバムを9枚、ベスト・アルバムを2枚発表している。

チリ・ペッパーズは、ファンクとハードロックやパンク・ロックを混ぜ合わせた、いわゆるラップロック、ファンクロック(ミクスチャー・ロック)バンドの一つとして有名である。初期は、フィッシュ・ボーンやジェーンズ・アディクションなどと共に、これらのパイオニアとして活躍し、その評価向上に大いに貢献した。3rd『ジ・アップリフト・モフォ・パーティ・プラン』までは、アンダーグラウンドの活動がメインであったが、4th『母乳』で知名度を上げ、5th『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』は全世界レベルでのブレイク作品となり、バンドと共に一躍ラップロックやファンクロックといったジャンル自体をメインストリームへと急浮上させた。

その後は、度々音楽性を細かく変えながらも、ファンク・パンク色は薄れ、メロディー路線が顕著となり、会心の復帰作7th『カリフォルニケイション』は、『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』を凌ぐセールスを記録し、現在までの最大のヒット作となった。

チリ・ペッパーズが、少年期に大きく影響を受けたのは、キッスやレッド・ツェッペリン、ジミ・ヘンドリックスなどのハードロックや、セックス・ピストルズやザ・クラッシュ、ギャング・オブ・フォー、ラモーンズ、イギー・ポップなどのパンク・ロックである。(ヒレルとジャック、フリーは、高校時代これらのカバーバンドをやっていた)

チリ・ペッパーズの音楽性を形作る上で影響を受けた、と彼らが語るのは、ジョージ・クリントン(2ndではプロデューサーを務めた)、ファンカデリック、スライ&ザ・ファミリー・ストーンなどのファンクミュージックや、パブリック・エネミーなどの当時ではアンダーグラウンドだったラップミュージックである。ジョン・フルシアンテは、これら以外にキャプテン・ビーフハートやP.I.Lなどといった前衛アーティストや、フガジなどのハードコアに影響を受ける一方、メロディーの美しいポップ・ミュージックも少年期に影響を受けたと語る。

音楽面で初期のバンドをリードしていたのはフリーであり、そもそもバンドの結成理由が、フリーのベースラインとアンソニー・キーディスのライミングのマッチングが思いのほか良かったから、というものだったことも含め、まさにバンドの核と言える存在だった。中期以降は、ジョン・フルシアンテの活躍が目覚ましいが、フリーやチャド・スミスらもライブと音源双方において、依然として大きく貢献している。

ライブでこれらのアーティストの楽曲をカバーすることは多く、また、共演することも多いのだが、それらの中には音源化されていないものも多数ある。

キャリアの初期から現在に至るまで、バンドのほとんどの曲の歌詞は、シンガーであるアンソニーが担当している。初期から中期にかけてのアンソニーの歌詞における主要な題材は、ドラッグや性的倒錯、アルコール、男根主義、パンク的アナキズム、ファンク的快楽主義などであり、その音楽自体ともよくマッチングしていると言えるだろう。

キャリアの中期以降は、ヒレル・スロヴァクの死など様々な影響で、詩的で叙情的な歌詞も多く見られるようになった

また、彼らの最大の特徴は、ライブでのパフォーマンスにあるとも言える。

初期の頃は、アンコールなどでペニスソックス(靴下で局部を隠した以外は全裸)の格好で登場。ある意味、この姿がトレードマークにもなっており、その破天荒な振る舞いが話題を呼んで、彼らは結成後それほど間を置かずに、すぐレコード会社との契約に漕ぎ付けることが出来たが、とあるストリップバーで演奏した時は、バーの店長から、毛の露出により大目玉を食らったこともあるという。

これをはじめとし、ロラパルーザ'92では、アンコール時に火吹きヘルメットを着用して、さらにウッドストック'94では、オープニングで巨大な電球の被り物を付けて登場し、「Give It Away」を演奏した。また、カリフォルニケイション期以降も、メンバーのノリによっては、数多くのライブで前述のペニスソックス姿を披露することもある(最近はめっきり減っている)。さらに、ウッドストック'99では、フリーが終始全裸でベースを弾き通した。パフォーマンス中に暴徒化した一部の観客が放火騒ぎを起こし、アンコールではメラメラ燃える炎を遠方に眺め、「Fire」を演奏した。

1997年の第1回フジロックでは、アンソニーが腕を骨折したまま、台風の中でライブを敢行。しかし、メンバーのまとまりは欠け、露骨にやる気のないデイヴ・ナヴァロの姿が目立ち、アンソニーは曲中の歌詞に日本人を侮蔑する単語を混ぜて歌った。結局彼らは、30分でライブを強制終了し、評価は散々だった(台風で2日目がお流れになったこともあり、この凄惨な初回フジロックは、フェスファンの間ではある意味では伝説的なものとなっている)。

このように、ライブにおけるエピソードには事欠かない。



メンバーがそれまでに所属していたバンドには、チェイン・リアクション (Chain Reaction) やアンセム (Anthym) などがある。

1983年 - アンソニー・キーディスとフリー、ヒレル・スロヴァク、ジャック・アイアンズによりバンド結成。

1984年 - Capitol/EMIと契約し、デビューアルバム『レッド・ホット・チリ・ペッパーズ』をリリース。プロデューサーにギャング・オブ・フォーのアンディ・ギルを迎えて作成されるが、この作品には、ヒレルとジャックは参加していない。

1985年 - ヒレルが復帰して、アルバム『フリーキー・スタイリー』をリリース。プロデューサーに、ジョージ・クリントンを迎えて作成された。バンドのファンキーな魅力が顕著にあらわれた作品となり、アンダーグラウンドで好評を得る。

1987年 - アルバム『ジ・アップリフト・モフォ・パーティ・プラン』をリリース。前作で復帰したヒレルに続き、ジャックもバンド復帰して制作された作品で、最初で最後のオリジナルフルメンバーによるアルバムになった。このアルバムから、初めて日本盤が発売される。

1988年 - ヒレルが、ヘロインの摂取過多により死亡。これに伴い、ジャックもバンドから脱退してしまう。

1989年 - 新メンバーに、ジョン・フルシアンテ、チャド・スミスを迎え、アルバム『母乳』をリリース。このアルバムの裏ジャケットの絵は、生前のヒレルが描いたものである。初めてのチャートヒット作品となり、この頃から大会場規模なツアーを行うようになる。

1991年 - Capitol/EMIからWarnar Brothers Recordsに移籍し、アルバム『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』をリリース。全世界レベルでのブレイク作品となる。現在のプロデューサーであるリック・ルービンを迎えた作品。このアルバムに収録され、シングルカットされたUnder The Bridgeで、初の全米1位を獲得。また、同じくシングルカットされたGive it awayは、グラミー賞のハードロック部門最優秀シングル賞を受賞している。

1992年 - 世界ツアーでの来日中、ジョンが突如帰国、脱退してしまう。

1995年 - ギタリストにデイヴ・ナヴァロを迎え、アルバム『ワン・ホット・ミニット』をリリース。しかし、デイヴはこの作品のみで脱退してしまう。

1999年 - ジョン・フルシアンテが復帰し、アルバム『カリフォルニケイション』をリリース。「スカー・ティッシュ - Scar tissue」で、2度目のグラミー賞を受賞。驚異的なセールスを記録し、現在までの最大のヒット作となる。

2002年 - アルバム『バイ・ザ・ウェイ』をリリース。チャドが「vary john」と表現したように、ジョン色が全面に押し出されたアルバムとなった。アルバムチャートでは、ついにイギリスで1位を獲得した。

2006年 - アルバム『ステイディアム・アーケイディアム』をリリース。初のアメリカアルバムチャート1位をはじめとして、全世界24ヶ国で1位を獲得。日本のアルバムチャートでも、2枚組の洋楽アルバムとしては、史上初の初登場1位を獲得した。先行シングルとなったDani Californiaが、同年に日本で公開された『デスノート』の主題歌として採用。同アルバム収録のSnow ((Hey Oh))も『デスノート the Last name』の主題歌に採用された。また、このアルバムで3度目のグラミー賞を受賞している。

2007年 - 3月19日の京セラドーム大阪、3月22日・23日の東京ドームの公演は、いずれもアンソニーが「急性肺炎、10日間の絶対安静」との医師の所見のため、3月17日の来日直前になって急遽延期された。

2009年 - ロックの殿堂にノミネートされる。ジョン・フルシアンテがソロキャリアで自分の志向を突き詰めたいとして脱退(後任はジョシュ・クリングホッファー)。


メンバー

アンソニー・キーディス (Anthony Kiedis) - ボーカリスト
1962年11月1日生まれ(1983年-)ミシガン州グランド・ラピッズ出身。175cm。バンド結成時からのメンバーだが、『ジ・アップリフト・モフォ・パーティ・プラン』のレコーディングの頃に一度脱退、その後に復帰した。2006年に、自伝『スカー・ティッシュ』を発表。

フリー (Flea, 本名マイケル・バルザリー (Michael Balzary)) - ベーシスト
1962年10月16日生まれ(1983年-)オーストラリアメルボルン出身。同じく、バンド結成時からのメンバー。ベースの技量は高く、All Music Guideにおいて「one of rock's most talented bassists(史上最も才能豊かなロックベーシストの一人)」と評されている。これまでも様々なミュージシャンと共同活動を行ってきたが、2009年レディオヘッドのトム・ヨークと新バンドを結成。

チャド・スミス (Chad Smith) - ドラマー
1961年10月25日生まれ(1989年-)ミネソタ州セント・ポール出身。190cmを超える巨漢。脱退したジャック・アイアンズの後任ドラマーを決めるオーディションで実力を買われて加入。ソロ活動も勢力的で、ドラム・セミナーなどで来日も果たしている。他のメンバーと同様、チリ・ペッパーズ以外にもサイド・プロジェクトを手掛ける。

ジョシュ・クリングホッファー (Josh Klinghoffer) - ギタリスト・バッキング・ボーカリスト
1979年10月3日生まれ(2010年-)カリフォルニア州ロサンゼルス出身。チリ・ペッパーズには2007年のステイディアム・アーケイディアム・ツアーの合間からサポートミュージシャンとして参加。2010年2月、チャド・スミスより、2009年12月に脱退したジョン・フルシアンテに変わって、新ギタリストとなることが発表された。

元メンバー

ギタリスト

アンソニーは、「ギタリストの座が安定しないのは、誰もヒレルの穴を埋められないから」とコメントしている。 ジョン・フルシアンテを含めて、ギタリストの座は数々のメンバーチェンジを経験した。また、ジョンを含むこの中の多くがストラトの使い手である。

ヒレル・スロヴァク (Hillel Slovak) (1983年以前, 1985年-1988年) 結成メンバー。ユダヤ系アメリカン。名前の発音は、ヒレルというよりもハイレルに近い。1988年6月、ヘロイン摂取過多により死亡。当初は、他の親友とのバンド(チリ・ペッパーズよりも古い)とのかけもちであり、そちらの契約の際に一時的に脱退、セカンド・アルバムで復帰し、サード・アルバム作成にも参加した。アンソニー、フリーの無二の親友であり、フリーにロックラジオのチャンネルを紹介しベースを1から教え、ロックミュージックに引き込んだ人物。彼のギタープレイは、初期バンドサウンドに彩りを与えた。少年期のジョン・フルシアンテの憧れのギターヒーローの一人であり、ヒレルもジョンと同じく絵画が得意だった(4thアルバム「母乳」のアートワークの裸婦画は、生前にヒレルが描いたもの)。生前に、アンソニーと共作した未発表の曲があることが知られているが、アンソニーは「ヒレルが弾かなければそれは違う曲」と、それを音源にする気はない事を明言している。チリ・ペッパーズのギタリストと言えば、フルシアンテという印象が強いが、バンド無名時代からのファンのヒレルへの人気は根強いものがある。本国では、いくつかファンブックも発売されており、実弟のジェイムズ・スロヴァクの著書が最も有名。

ジャック・シャーマン (Jack Sherman) (1983年-1985年) ヒレルが、他のレコード会社へ移籍した際に、臨時オーディションで加入、ファースト・アルバム作成に参加した。アンソニー曰く、「テクはあるがオタクなギタリスト」で、弦で指を切ってピックアップを血に染めてまで破天荒なプレイをするようなヒレルに対し、ネックに潤滑スプレーをつけるほどの几帳面なジャックは、アンソニーとフリーの気性には合わず喧嘩が絶えなかった、とアンソニーの自伝で言及されている。脱退後も、「母乳」の「ハイヤー・グラウンド」のコーラスなどで参加しており親交はあったようだが、後にアンソニーを精神的苦痛で訴えた。そのような間柄ではあったが、「初期のバンドを支えてくれた存在であることは間違いない。」として、アンソニーは自伝で敬意を表している。
デュエイン・“ブラックバード”・マクナイト (Duane 'Blackbird' McKnight) (1988年-1989年) ヒレルが亡くなった後に加入した、黒人ギタリスト。その後すぐ脱退したが、「母乳」以前のいくつかのEPでは、彼がギターを弾いてレコーディングした曲も存在する。元はP-Funk周辺で活躍しており、現在もジョージ・クリントンバンドの一員。

ジョン・フルシアンテ (John Frusciante) - ギタリスト
1970年3月5日生まれ(1989年-1992年, 1999年-2009年)ニューヨーク出身。元は、バンドの熱狂的なファンの一人だったが、亡くなったヒレルの代役として、当時18歳の若さでバンドに加わる。1992年の日本ツアー中に突如帰国、脱退する。一時は歯を全て失ってしまうほどの薬物依存に陥ったが、後に克服してバンドに復帰し、現在に至る。チリ・ペッパーズとしてだけでなく、ソロ・アルバムも数多く発表しており、2004年の6連続ソロ作品リリースは、ファンを驚嘆させた。ジョシュ・クリングホッファーらとの別バンドなど、活動は多岐にわたる。

ザンダー・シュロス (Zander Schloss) (1992年) 日本でフルシアンテが突如脱退した直後、急遽残っていたオーストラリア公演のために声をかけられるが、フリーに「チリペッパーズ向きのプレイではない」と難色を示され、わずか4日で解雇。現在はベーシスト、映画俳優として活動。

アリク・マーシャル (Arik Marshall) (1992年-1993年)Lonnie Marshallと共に、兄弟バンド「Marshall Law?」を組んでいたギタリスト。92年のベルギー公演から93年のロサンゼルス公演まで参加。インディーで活動していたアリクにとっていきなりの重労働のスタジアムツアーは、心身共にきついものだったようで、ツアーバス内で強迫的に睡眠をとることで、その難を和らげようと苦心していたという。

ジェス・トビアス (Jess Tobias) (1993年) アリク脱退後、加入。1週間のみ在籍。

デイヴ・ナヴァロ (Dave Navarro) (1993年-1999年) ジェーンズ・アディクションから加入。 チャド・スミスとはとても仲が良く、メタルとヘヴィロック志向の重厚なサウンドを得意とする彼のプレイも評価が高かったが、アルバム1枚とツアー参加のみで、音楽性の違いから脱退した。

ドラマー

ジャック・アイアンズ (Jack Irons) (1983年, 1985年-1988年) 結成メンバー。ヒレルと共に、古くから参加していた親友のバンドの契約のため一時的に脱退したが、サードアルバムで復帰。アンソニー、ヒレル、フリーという無法漢が揃うバンドの中で、他メンバーを抑え(フリーいわく「ジャックが最も家庭的にまともだった」)気遣った存在。ヒレルの死後、親友の死とバンドの存続との狭間で苦悩し、結局はチリ・ペッパーズを脱退。後に、精神病院に入院していたところを、元ザ・クラッシュのジョー・ストラマーにソロアルバムのバックバンドとして拾われ、音楽界に復帰した。最終的にはパール・ジャムへ移籍し、チリ・ペッパーズでのキャリアよりも長くバンドに在籍したが、引きずった精神病の悪化で脱退。巡り合わせか、奇遇にもサポート・ドラマーとして働いていた時に、同じくサポートギタリストをしていたデイヴ・ナヴァロと同じ仕事をしていたことがある。後にソロ・アルバムを出し、フリーやエディー・ヴェーダーに感謝の言葉を送った。07年、ロサンゼルスにて、この3人でパール・ジャムの曲を演奏した。ちなみに、エディ・ヴェーダーを当時パール・ジャムのメンバーに推したり、チリ・ペッパーズとの共同ツアーの橋渡し役になったのもアイアンズであり、彼がいなければ間違いなくパール・ジャムは現在の形で存在し得なかった、と言える。

クリフ・マルティネス (Cliff Martinez) (1983年-1989年) ジャック・アイアンズが、他のレコード会社へ移籍した際、オーディションで加入し、ファースト・アルバム作成に参加した。その後、セカンド・アルバム制作にも参加。アンソニー曰く、「ジャケットや帽子のセンスが俺たち以上に尋常じゃなかった」らしく、実際、当時のPVやライブ映像では、様々なバリエーションの巨大な帽子を被って演奏していることが多い。

D.H.ペリグロ (D.H. Peligro) (1988年-1989年) 元デッド・ケネディーズのメンバー。
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