Lamp Mode Recordings | ja

1980年、イングランドのエセックス、バジルドンにて結成されたエレクトロニックバンド。 バンド名は、フランスのファッション雑誌 "Dépêche mode" から引用したものである。英語では"fast fashion"と訳され、"最先端の流行"という意味があるが、結成当時、特にその意味を意識して命名されたわけではない。 デビューのきっかけは、彼らのステージを東ロンドンにあるパブ「ブリッジハウス」で見た、Mute RecordsのDaniel Millerに声をかけられたことである。この出会いが、Depeche Mode、そしてMute Recordsの後の運命を変えた。 彼らは1981年2月にデビューシングル「Dreaming of Me」を発表。全英チャートで57位を記録する。続いてシングル「New Life」を発表、これが全英チャート11位を記録するスマッシュヒットとなり、3ヵ月後に出した「Just Can't Get Enough」では全英チャート最高8位と着実に成果を出していく。そして満を持して発表した1stアルバム『New Life』は全英チャート10位を記録し、評論家や雑誌から好意的な評価を得た。時代はニュー・ウェーヴの最盛期であり、その時流に乗った形となる幸先のよい船出であった。ここで最初の不協和音と困難がバンドを襲う。かねてからプロモーションとツアー活動に不満を漏らしていたVince Clarkeが1981年に脱退し、Martin Goreが代わりに作詞作曲を担当することでバンドを存続させ、この件がMartin Goreの才能を開花させるきっかけとなった。ヴィンス脱退後の初のシングルとなった「See You」は過去最高の全英チャート6位を記録。続いて2枚のシングルを出した後2ndアルバム『A Broken Frame』を発表。MartinはVinceの持っていたポップセンスと陰りのある作風を引き継ぎ、さらに独自のものへと発展させていった。Alan Wilderが加入して3rdアルバム『Construction Time Again』をリリース、Alanはバンドの音楽性に今までにない要素、金属の打撃音や摩擦音といったインダストリアル・ミュージックの要素を持ち込んだ。この頃から、Martinの詞には社会の矛盾に対する鋭い批判や意味深なニュアンスが込められるようになってくる。5thアルバム『Black Celebration』、6thアルバム『Music for the Masses』のリリースにより、バンドはエレクトロニック・ミュージックシーンにおける主力としての地位を獲得していく。1990年の7thアルバム『Violator』はアメリカだけで350万枚以上を売り上げたバンド史上最大のヒット作として知られ、10年間で築き上げてきたDepeche Modeの集大成的な作品となった。 1995年6月、Alan Wilderがバンドからの脱退を表明する。その理由として、「バンドでの音楽面の貢献に対する自分への敬意が払われていない」と主張した。同じ年の8月、今度はDave Gahanが自殺未遂をする。この時点でDaveは長年の薬物使用による重度の薬物中毒に陥っており、また2番目の妻とも離婚を余儀なくされるなど、治療を要する状態になっていた。薬物治療を経て回復した矢先の1996年5月28日、親族から電話で懲りずに繰り返すと言われたことに逆上し、ロサンゼルスのホテルの一室でヘロインとコカインの混合物を大量に注射し、手首を切って自殺を図った。偶然、友人がDaveの滞在していた部屋を尋ね、意識を失ったDaveを発見し通報、病院へと搬送された。その途中、Daveの心臓が2分間止まっている。一命は取り留めたものの、2日後に警察に逮捕され、裁判の結果9ヶ月のリハビリを命じられ、これを達成する。以来、長年使用していた薬物と縁を切り、住んでいたロサンゼルスを離れニューヨークへと移った。さらにMartinもアルコール依存症に苦しんでいたことが後に雑誌「Q」でのインタビューで判明した。同時に、Devotionalツアー南米公演におけるAndy Fletcherの参加拒否の理由が、メンバーがそれぞれ抱えていた問題に対処しきれず悩んだ末に心を病んだことが原因のひとつだったことも判明した。スケジュールは大幅に伸びたものの、復活作9thアルバム『Ultra』は英国チャート1位を記録。 2001年の10thアルバム『Exciter』ではIDMなど先進的なテクノやハウスの要素を盛り込み、従来のアルバムとは毛色の違うものとなり、評価は二分した。2009年にはDaveが膀胱癌を発症。手術後に活動を再開した。 バンドの音楽性は、主にシンセポップ、ニューウェーブ、エレクトロニックロック、ダンスロック、オルタナティブロックなどに分類されるが、彼らが影響を受けた音楽はKraftwerk、David Bowie、The Clash、The Velvet Undergroundやブルース、グランジなど多岐ににわたり、その長いキャリアの中ではアヴァンギャルドミュージック、エレクトロニカ、ポップ、ソウル、テクノ、インダストリアルロック、へヴィメタルなど他のジャンルでの実験要素も見られる。また、彼らが与えた影響も広範囲に及び、デトロイト・テクノや、インディロック、インダストリアルメタルのシーンへの影響は特に大きいと言われている。 バンドは2009年までに1億枚以上のセールスを記録している。その功績・業績に比して日本での知名度は低いものの、2006年のMTVヨーロッパ・ミュージック・アワードの最優秀グループ賞を得るなど、欧米での評価と人気は健在である。 Current members Dave Gahan – lead vocals (1980–present) Martin Gore – keyboards, backing and lead vocals, guitars (1980–present) Andy Fletcher – keyboards, backing vocals, bass guitar (1980–present) .
Modern Talking was a German pop music duo consisting of composer/producer/background singer Dieter Bohlen and singer Thomas Anders founded in Berlin in early 1983. It was the single most successful pop group in Germany (by sales). First formed at the end of 1984 (Anders was 21), they unexpectedly became immensely popular with their standalone disco hit "You're My Heart, You're My Soul", which was then followed by "You Can Win If You Want" and "Cheri, Cheri Lady". They released two albums a year from 1985 to 1987 while also promoting their singles on television all over Europe. After splitting up...
プログレッシヴ・ロック・バンド“マンドレイク”を母体に1979年に結成。 同年、シングル「美術館で会った人だろ」とアルバム『イン・ア・モデル・ルーム』でデビュー。 “テクノ・ポップ”ブームの牽引役として一躍時代の寵児となる。 3rdアルバム『ポプリ』(81年)以降は音楽スタイルもメンバーも1作ごとに変化。 ポップ・ミュージックであることを前提にしつつも、常に革新的な音楽実験を繰り返してきた。 結成20周年にあたる1999年にはメジャー・レーベルを離れて「音楽産業廃棄物~ P-MODEL OR DIE」と銘うったプロジェクトを展開。 プロ・ミュージシャンとしては初となるインターネット上での有料音楽配信を開始するなど、新たな作品配給の在り方を提示して音楽業界に衝撃を与える。 2000年からは、1988年の“凍結”、1993年の“改訂”に続く3度目の活動休止である“培養”期間に入った。 これまでの参加メンバーは全16人(うち1人はCG)で、12枚のオリジナル・アルバムのほか多数の作品を残している。 .
SCREEN mode is a newly-formed unit by sound producer Masatomo Ohta; 雅友(太田雅友) and voice actor Yuu Hayashi; 勇-YOU- (林勇). They started activities in Spring 2013 with their 1st single "月光STORY", the ED theme song for TV anime Gingitsune. Official Website: http://screenmode.net/ .
室内楽とジャズを融合させた稀代の功労者たち  クラシックに傾倒するジョン・ルイス(p)の趣向を、モダン・ジャズ界の名手たちとグループ・サウンドに昇華した名門コンボ。51年、ディジー・ガレスピー(tp)のビッグ・バンドの構成員だったルイス、ミルト・ジャクソン(vib),パーシー・ヒース(b)、ケニー・クラーク(ds)の4人で活動を開始。翌年にレギュラー化し、対位法を採り入れた室内楽曲にファンキー・ジャズの即興性を融合する画期的実験を進める。55年からクラークがコニー・ケイ(ds)に代わり、メトロノーム誌の人気コンボのトップに躍り出た。楽理と演奏力を一体化させた名作を連発。ジャズの領域を脱し映画音楽や組曲にも挑戦した。74年11月のニューヨークでのコンサートで、実質的解散となった。 Dr.NAKAJIMA著 .