Eönä | ja

この騒がしい時世に、ゆったりとした雰囲気を持ち、歌うことで国民の関心を惹くことのできる人物など滅多にいない。だが。2006年の終わりに遡ってみると、レオナ・ルイスが毎週そんな時間を我々に与えてくれていた。登場したときからずっと『The X-Factor』(イギリスの人気オーディション番組)の本命だった彼女は、TVのタレント・コンテストという枠組みをはるかに超えて大絶賛を浴びていた。 抑揚のある声に恵まれ、心臓が止まるかと思うような激しさだけでなく遊び心溢れる軽いタッチもこなせるレオナ。現在23歳、イーストロンドン/ハックニー出身のレオナは、タレントショーでよく見る優勝者達とはまるで違っていた。 ファイナルの前にもかかわらずアメリカ音楽界の大物クライヴ・デイヴィスがサイモン・コーウェルに電話で「きみは次のホイットニー・ヒューストンを手中にしているかもしれない」と言い、サイモンは「なんて魅惑的だ……こんなに凄いなんて信じられなかった」と次々に口にし、人々はレオナをホイットニー・ヒューストンやマライア・キャリーと比べるようになった。 2006年12月、『The X-Factor 2006』優勝直後にリリースされ、その年のクリスマスNo.1ヒットとなったデビュー・シングル「A Moment Like This」(ケリー・クラークソンのカバー)が、発売30分でその年の最高ダウンロード数を記録。1週目だけでシングルが60万枚以上の売り上げを記録し、女性アーティストのデビュー・シングルとしてはUK史上最速のセールス新記録を打ち立てる華々しいデビューを飾ったレオナだったが、その後1年間に渡り、リリースや宣伝広告もなく、真の意味でスーパースターとしての地位を確立するために、表舞台から姿を消した。 2007年2月にアメリカへ飛んだレオナは、クライヴ・デイヴィスが主催したショーケースでパフォーマンスを行った。そして世界でも名高いソングライターやプロデューサーたちの心をつかみ、ロンドン、アトランタ、マイアミ、ロサンゼルスといった場所で、選りすぐりのスーパー・ヒット・プロデューサー達と共に、じっくり時間をかけてデビュー・アルバムのレコーディングに打ち込んでいたのだ。 「スタートはロンドンでSteve Macと一緒だった」 ケリー・クラークソンからマライア・キャリーといった数々のスターたちを手掛けてきたUKポップス界の大物の名前をあげてレオナは話す。 「それからアトランタではDallas Austin、LAではSoulshock and CarlinにJam and Lewis、そしてマイアミではWalter AfanasieffやSalaam Remiもね。彼のスタジオは最高だった。他のところと違って、家の屋上にスタジオがあるの。そして横にはプール。テイクの合間に日光浴をして肌を焼いていたのよ」 これらのプロデューサー達が今までに手掛けてきたアーティストは、アレサ・フランクリン、マイケル・ジャクソン、ジャネット・ジャクソン、TLC、デスティニーズ・チャイルド、フージーズ、アッシャー、マライア・キャリー、ホイットニー・ヒューストン、エイミー・ワインハウスなど。さらにレオナはさらなる可能性を求めて、USソングライターの女王、Diane Warrenのところへも足を運んでいる。 ミュージック・シーンの生きる伝説、クライヴ・デイヴィスとサイモン・コーウェルという歴史的タッグのプロデュースのもとで、レオナは好きなように時間を使って己の運命を操ることのできる贅沢を与えられていたという。 「一人前の人間として扱ってくれた。従わなくてはいけないような決まったやり方を押しつけられることはなかったの。新しい環境に慣れるための時間もあったし、たくさんのことを学んだし、サイモンもクライヴもわたしの話によく耳を傾けてくれた。普通はそんなふうに成長する機会を与えてもらえることなど滅多にないわ。ましてやタレントショー出身の人間になんてなおさらよ。わたしはラッキーだったの。そのことはちゃんと自覚してる」 あの驚くべき声を披露していないときは、堅実でシャイな一面をもつレオナ。彼女はアーティストとして大きく前進した。彼らのサポートのおかげで、これまでずっと持ち続けてきた情熱に新たに自信が加わった。 「サイモンによく言われたのは、直観に従って己に正直でいなさいってこと。クライヴもまったく同じことを口にした。わたしは最高の楽曲を歌いたいと思っていたし、手元にあったたくさんの曲は自分自身とのつながりを感じられるようなものばかりだったわ」 「アルバムに収録されたのは、現代的なスパイスをきかせた古き良きポップス。バラードもあればアップテンポな曲もある。それにいろんなことを試していて、もうやり尽くしてしまったって感じたときには、有望なプロデューサー達が手を貸してくれた。Fernandoはすごくクールな80年代のサウンドをプラスしてくれたしね。とはいえ、全部がちゃんとした歌であるってことが私にとっては一番大事。ビートばかりだったり流行りのサウンドを追いかけたりしてるようなトラックはない。わたしは楽曲にアコースティックな働きを求めるのよ。 以前はよくアコースティック系のギグをしたし、そういう要素を持っている歌が好き」 このようにレオナの話を聞いていると、彼女のデビュー・アルバムが、己が望んだ通りのものに満たされていることがよくわかる。きらびやかな名前の並ぶパートナーたちのリストに、Ne-YoやStargate、さらにはBilly Steinberg(「Like A Virgin」-Madonna, 「True Colors」-Cyndi Lauper, 「So Emotional」-Whitney Houston, 「Eternal Flame」-The Bangles他)も加わり、Roberta Flackの「The First Time Ever I Saw Your Face」のカバーも収録されている。 「最後のレコーディングはNYでやったの」 顔を輝かせてそう話す彼女の声は誇りと興奮で震えている。 「楽曲があまりにたくさんあったから、アルバムにぴったりのものをなかなか決められなかったわ。クライヴとサイモンと私の3人でその作業をしていたの。このアルバムは楽曲そのものがすべて。最高のアルバムを作るために、わたしは自分の時間を最大限に活用した。ここには決め手となるサウンドがあり、誰もがバスルームの鏡の前で声を張り上げて歌えると思う」 ハードな制作期間中、ポップスターとしての堂々とした自信も身に付けた。スタイリッシュで魅力的なレオナをカリフォルニアのビーチで撮影した新たな写真には、自信に満ちた彼女のその姿がよく表れていて、音楽に対する大きな自信は彼女の別の部分にも広がりつつある。 80年代のプリンスがポップ・ミュージックの形を変貌させたことに思いをはせ、そしてそこにマライア・キャリーの歌声を足せば、世界が待ち望んでいたシングル「Bleeding Love」のことが多少なりともわかるかもしれない。 「One RepublicのRyan Tedderが書いた曲よ」己の音楽のルーツをたどることに意欲的なレオナは言う。「彼らはロック・バンドだけどプリンスぽい感じがある。RyanはTimberlandと仕事をしたことがあるし、すごくたくさんの方向性を持った人だわ。内容はラヴソング。でもボーイ・フレンドだけじゃなく友人たちに対する歌でもある。大事な人に向かって、いつでもそこにいるわ、と伝えているの」 「このアルバムは誠実で純粋な気持ちから生まれたのよ。 “レオナはどこへ消えちゃったの?”って思ってる人もいたことはわかってるけど、でもわたしが求めていたのは、わたしを支えてくれて一緒にアルバム制作をしてくれる人たちだった。プロデューサー本人が誇りを持てて、しかも世の中の人たちが共感できるようなアルバムを一緒に作ってくれる人たちよ。わたしが一生懸命やっているのは、今後ずっとみんなを喜ばせるアーティストになるためなの。みんな驚くと思う。だってわたし自身がびっくりしてるんだから」 こうしてリリースへ向けての準備を整えていったレオナは、2007年10月22日にシングル「Bleeding Love」、11月12日にデビュー・アルバム『Spirit』のUK国内リリースを迎えた。 今もっともホットなプロデューサーの1人、Ryan Tedder(Jennifer Lopez, Mary J Blige他)がプロデュースしLAでレコーディングした「Bleeding Love」は、たった3週分のみで同年最高売り上げを記録し、これまでに100万枚を超えるロング・ヒット。 続いてリリースされたアルバム『Sprit』は、発売1週目に37万枚以上を売り上げ、アークティック・モンキーズがもっていた記録を破り、デビュー・アルバムとしてはUK国内最速セールス新記録、全アルバム総合でもオアシス、コールドプレイ、ダイドに次ぐ歴代4位に食い込む驚異的なスピードでヒットし、そのセールスは発売からたった10日で100万枚を突破。現在までに250万枚を超える空前の大ブレイクとなっている。 イギリス中が絶賛し、クライヴ・デイヴィス、サイモン・コーウェルを始めとする数々のスーパー・ヒット・プロデューサー達も惚れ込んだ才能。既に2008年1月にリリースされたヨーロッパ各国やアジア/オセアニア各国で大ヒットを記録し、ドイツ、スイス、オーストリア、オーストラリア、ニュージーランド初登場1位、ビルボード・ヨーロッパ・チャートでも1位を獲得。 日本と同じく4月にアルバム・リリースを迎えたアメリカにおいても、「ブリーディング・ラヴ」が4/5付全米シングル・チャート「Billboard Hot 100」において1位を獲得。UK出身女性アーティストのデビュー・シングルとしては21世紀になって初、1965年のペトゥラ・クラーク「ダウンタウン」、1981年のシーナ・イーストン「モーニング・トレイン(ナイン・トゥ・ファイヴ)」に次ぐ史上3人目/27年振りとなる快挙を達成し、そのセールスは260万枚を突破。また、アルバム『スピリット』も4/26付同アルバム・チャート「Billboard Hot 200」において1位を獲得。同チャートにおけるデビュー・アルバムでの初登場1位は、UKアーティストとして史上初、デジタル・セールスにおいても、新人アーティストの発売1週目セールス新記録を樹立。新人としては例を見ない快挙を遂げ、1位を獲得した国は12ヶ国にも及び、2008年10月現在、その全世界セールスは600万枚を突破。日本ではアルバムを発売直後の5月に初来日し、アルバムは20万枚を突破するヒットを記録。7月には2回目の来日を果たし、現代の英国の豊かなクリエイティビティーの象徴として、女性として初のUK-Japan 2008親善大使として任命式も行った。 その後も、8月には2008年最大の世界的祭典、北京オリンピック閉会式に次回開催地ロンドンを代表する1人としてデヴィッド・ベッカムやジミー・ペイジ等と共に出演。ロンドン名物の2階建バスの2階部分がステージに変形するかたちで登場し、ジミー・ペイジとレッド・ツェッペリンの「Whole Lotta Love」を競演。9月には、USで行われた一大チャリティ・イベント「Stand Up To Cancer」にもマライア・キャリー、リアーナ、ビヨンセなどの錚々たるスーパースターと共に出演。 世界各国の2008年年間チャートを制し、また、第51回グラミー賞にも3部門でノミネート。「2008年最大の新人」として名実共に真の全世界的な大ブレイクを果たした。 .
その独特の世界観や宗教観、自己への問いかけと他者へのまなざし、それを呟くような歌声で歌う(または語る)姿は、永年にわたり特定のアーティストや人々を虜にしてきた。カルト・ヒーローという言葉がぴったりはまるアーティストの中でも、かなり上位にランクされるであろうその人、レナード・コーエンは34年9月、カナダのモントリオールで生まれている。もともとはカントリー&ウェスタンを好んで聴き演奏していたが、大学在学中に初の詩集を出版し、音楽より先に詩人/小説家として名を知られることになった。 やがて人気フォーク・シンガー、ジュディ・コリンズに「スザンヌ」が取り上げられたことから注目され、67年アルバム『レナード・コーエンの唄』でデビュー。以降「バード・オン・ワイアー」「チェルシー・ホテル#2」「ハレルヤ」など、彼の名曲すべてを記すのは、枚挙にいとまがない。 オリジナル・アルバムとしては92年以来リリースがなく最近こそ寡作になっているが、ライヴやベストも含めると今までに13枚のアルバムを発表しており、フランス、イギリスといったヨーロッパ諸国ではチャートの上位にもランクインする、単なるカルト・ヒーローを越えた存在でもある。彼のトリビュート・アルバムも2枚発表されており、ロイド・コール、ニック・ケイヴ、R.E.M、ビリー・ジョエル、ドン・ヘンリーなど「なるほどやっぱり」なアーティストから「えっ?こんなメジャーな?」というアーティストまでが、コーエン・ファンを自認し、彼の曲をカヴァーしている。 .
レナード・バーンスタイン (Leonard Bernstein, 1918年8月25日 - 1990年10月14日)は、ユダヤ系アメリカ人の作曲家・指揮者である。またピアノの演奏家としても知られている。アメリカが生んだ最初の国際的レベルの指揮者になり、ヘルベルト・フォン・カラヤンと並んで、20世紀後半のクラシック音楽界をリードしてきたスター音楽家だった。愛称はレニー。夫人のフェリシア・モンテアレグレはチリ出身の女優・ピアニスト。 バーンスタインはウクライナ系ユダヤ人移民の3世としてマサチューセッツ州ローレンスに生まれる。生まれた当初の名前はルイス(後にレナードに改名する)。父親サミュエルは敬虔なユダヤ教徒であった。家族には音楽的な環境は全くなかったが、母親ジェニーが持っていた蓄音機の音楽に耳を傾けるのが大好きな赤ん坊だったという。理髪店を経営した父親の強い反対を押し切って、プロの音楽家の道を志した。 ボストン・ラテン・スクール(Boston Latin School)を経て、ハーバード大学・カーティス音楽院で学ぶ。彼が指揮者を志したのはディミトリ・ミトロプーロスの刺激だった。指揮ではフリッツ・ライナーやセルゲイ・クーセヴィツキーに師事し、作曲はウォルター・ピストンに師事した。ピアノはイサベラ・ヴェンゲーロワに師事している。カーティス音楽院を卒業後、しばらく仕事を得られない時期があったが、1943年夏にアルトゥール・ロジンスキーの指名によりニューヨーク・フィルハーモニックの「副指揮者」(Assistant Conductor)に就任した。 1943年11月14日、病気のため指揮できなくなった大指揮者ブルーノ・ワルターの代役としてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団(現・ニューヨーク・フィルハーモニック)を指揮、この日のコンサートはラジオでも放送されていたこともあり一大センセーションを巻き起こす。この時の曲目は以下の通りである。 ロベルト・シューマン『マンフレッド序曲』 ミクロス・ローザ(ハンガリー出身の作曲家、映画「ベン・ハー」の音楽などが代表作)『主題、変奏曲と終曲 Op.13a』 リヒャルト・シュトラウス『ドン・キホーテ』(チェロ:ジョゼフ・シュスター、ヴィオラ:ウィリアム・リンサー) リヒャルト・ワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕前奏曲 1958年、アメリカ生まれの指揮者として史上初めてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の音楽監督に就任する。バーンスタインとニューヨーク・フィルのコンビは大成功を収め、同フィルの黄金時代をもたらした。作り出す音楽の魅力、気さくでおおらかな性格、指揮者としての情熱的な指揮ぶり(興に乗ると指揮台上でジャンプすることもあった)などでファンを魅了し、スター性も備えていた。CBSレコードと録音契約を交わした際には「彼の録音に際しては、録音曲目の決定をほぼ彼に一任する」待遇を受け、当時としては画期的なレパートリーも数多く録音した。 1969年にニューヨーク・フィルの音楽監督を辞任した後は常任指揮者等の特定のポストには就かず、ウィーン・フィル、イスラエル・フィル、バイエルン放送交響楽団、ロンドン交響楽団、フランス国立管弦楽団などに客演しては名演奏を聴かせた。ことに同じユダヤ系であるグスタフ・マーラーの演奏は自ら“自分で書いたような気がしてくる”と言うほどで、数々の名演奏を残した。音楽解説者・教育者としても大きな業績を残し、テレビ放送でクラシック音楽やジャズについての啓蒙的な解説を演奏を交えて行った。マイケル・ティルソン・トーマス、小澤征爾、大植英次、佐渡裕など多くの弟子を世に送り出したことでも有名である。 1985年8月に広島を訪れ、被爆40周年を悼むための「広島平和コンサート」を開催した。1989年のクリスマスには、直前に起きたベルリンの壁崩壊を受け、ベルリンで東西ドイツ・アメリカ・ソ連・フランス・イギリスの各オーケストラの混成メンバーでベートーヴェンの交響曲第9番を指揮、この時第4楽章の「歓喜の歌」の“Freude”を“Freiheit(自由)”にして演奏し、東西冷戦終結を象徴する演奏会として記憶されることとなった。音楽家として社会的なメッセージを発信する活動も数多く行ったが、時にはそうした行動が物議を醸すこともあった。 1990年6月には札幌でパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)を開始し、後進の育成にも力を入れようとしていたが、既にバーンスタインは病に冒されていた。同年8月19日のタングルウッド音楽祭におけるボストン交響楽団との演奏(ブリテン:「4つの海の間奏曲」、ベートーヴェン:交響曲第7番)が最後の舞台となり、10月9日に指揮活動からの引退を表明する。それから5日後の10月14日に、肺癌のためニューヨーク市内の自宅で逝去した。 バーンスタインは生涯に7度来日した。最初の4回(1961年、1970年、1974年、1979年)はニューヨーク・フィルを率いて。1985年には8月上旬に前述の「広島平和コンサート」を開催し、9月前半にはイスラエル・フィルを率いて来日公演を行った。この時にNHKホールで演奏されたマーラーの交響曲第9番は、ベルリン・フィルとの歴史的演奏(指揮活動の項を参照)をも凌ぐ壮絶な超名演だと当時の聴衆から評価されている。最後(1990年)はPMF、それに続いてロンドン交響楽団を率い、東京で2回の公演を行った。しかし、バーンスタインの病状悪化が周囲に知らされず、2回の東京公演以降に予定されていた演奏会をキャンセルし、途中でアメリカに帰国することになる。この一件は、7月10日の演奏会に天皇が招待されていたことや、自作(「ウェスト・サイド・ストーリー」よりシンフォニック・ダンス)を弟子の大植英次に指揮させたこともあり、観客の一部と主催者との間にトラブルを起こす事態にまで発展した。 映画「リチャード・ニクソン暗殺を企てた男」でショーン・ペン演じる主人公サミュエルが敬愛する人物として、劇中何度もバーンスタインの名がセリフとして出てくる。 .
Christopher Paul Leonard-Morgan (born 1974) is a Scottish composer, particularly known for his work in scoring for television and film. He won a BAFTA award for his first film score, the movie Pineapple. He was also nominated for a BAFTA and an Ivor Novello award for his score to the ITV drama Fallen. He composed the scores for series 5, 6,7 and 8 of the long-running BBC spy drama Spooks. In 2008 he was chosen by the U.S. Olympic Committee to compose a new US Olympic Team anthem. After graduating from the renowned Royal Scottish Academy of Music and Drama,...
Leonardo Amuedo ( Montevideo , Uruguay , September 20, 1967 ) is a guitarist known for his performances with Ivan Lins. Learned guitar from his brother at age 4 . At 17 he began studying theory musical. Amuedo won four times Grammy Award. Worked with many important musicians from Uruguay, as Julio Frade , Hugo and Osvaldo Fattoruso , Urbano Moraes , Fernando Roasted and Mariana Ingold . Lived and worked in the Netherlands from 1990 to 2002 and during this period played and recorded with Fernando Lameirinhas , Jewel , Laura Fygi , Josee Koning , Trijntje Oosterhuis ,...
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Songes des bois
Nocturnal tourting I
Nocturnal tourting II
Ondine
Au Temps Jadis
L'Appel du Satyr
Lunensis
L'Ame du Lac
Lunensis
Fete Medievale
L'Ame du Lac
Sinople
Esprits de la nuit
Arrivee du printemps
Sinople
The Gates of Heaven
Du Temps Jadis...
Legende Elfique
Requiem des Templiers
Longes des Bois I & II
Legende Elfique
L'Obre de la Mort
Arrivee du Printemps
Naturae
Nocturnal Courting I
Retour de bataille
Belladone
Fete Medievale
Longes des Bois I & II
Esprits de la Nuit
Retour de Bataille
Nocturnal Courting II